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第2話 巻き戻った朝の誓い①

Author: なつめ
last update publish date: 2026-06-10 13:00:51

 通して、と言ったあとで、リリアーナはすぐに後悔した。

 喉の奥がひどく乾いている。掌は冷たいのに、背中にはじっとりと汗が滲んでいた。胸の中で心臓が速く鳴っている。控えめな足音が廊下を近づいてくるたび、前世の最後に聞いた、あの重く静かな足取りが耳の奥で重なった。

 逃げたい。

 扉の向こう側へ背を向けて、窓から庭へ降りてしまいたい。そんな衝動が一瞬、幼稚なくらい鮮明に浮かんだ。けれど、もう子どもではいられない。逃げるにしても、まずは現実を見なければならなかった。彼が本当に前世と同じ男なのか。あの涙が、死の間際の錯覚ではなかったのか。そして、自分はこの婚約から、本当に降りられるのか。

 ノックは二度、控えめに鳴った。

「失礼いたします」

 家令の声に続いて扉が開く。先に入ってきたのは伯爵家の使用人で、その背後に、黒い影がひとつ立っていた。

 リリアーナは息を止めた。

 セドリック・ヴァレンティアは、前世の記憶と寸分違わぬ姿でそこにいた。艶のない黒髪。整いすぎて冷たく見える面差し。高く通った鼻梁。薄い唇。人を射抜く蒼灰色の瞳。朝の光の中にいてもなお、彼だけが夜を連れてきたように見える。

 ただ一つだけ、違っていた。

 その目が、彼女を見た瞬間に、はっきりと揺れた。

 ほんのわずかだ。父や継母なら気づきもしないほど短い乱れ。けれど十年、その冷えた横顔ばかり見てきたリリアーナには分かった。彼は今、驚いている。あるいは安堵している。喪ったものをもう一度見つけた人間のように。

 そんな顔を、する資格があなたにあるの。

 胸の底で、鋭いものがきらりと光る。

 父が慌てたように立ち上がった。

「侯爵様。わざわざご足労いただき、恐悦至極に存じます。本来であれば応接間へご案内すべきところ」

「構わない」

 低い声。短く、無駄がない。前世と同じ響きだった。だがその後、彼は父ではなく、真っ直ぐにリリアーナへ視線を向けた。

「急な訪問で申し訳ない。体調が優れないと聞いた」

「……少し、朝から気分がすぐれなかっただけです」

 自分でも驚くほど、声が細かった。

 セドリックは部屋の中央まで進み出たが、それ以上は近づかなかった。距離を測っているようでもあり、うかつに触れれば壊れるものを前にしているようでもあった。黒手袋を嵌めた指先が、ほんの僅かに強張っている。

「顔色が悪い」

「ご心配には及びませんわ」

「そうか」

 たったそれだけの会話なのに、空気が張り詰めて痛い。継母が柔らかな笑みを浮かべて間に入った。

「まあ、侯爵様。お気遣いをいただき、ありがとうございます。この子も緊張しているのでしょう。婚約調印を控えておりますもの」

「……緊張」

 セドリックが、低くその言葉を繰り返した。まるで別の意味を知っているような声音だった。

 リリアーナの指先がぴくりと震える。

 彼は知っているのだろうか。前世の自分が、婚約から結婚まで、ずっと怯えていたことを。愛のない政略結婚の中で、何をどう振る舞えば正解か分からず、家の恥にならないように、ただ必死に微笑み続けていたことを。

 いいえ、と心の中で振り払う。知っていたなら、あんな十年にはならなかった。知らなかったから、あるいは知ろうとしなかったから、私は独りだったのだ。

 父が上機嫌に笑った。

「侯爵様が自らお見えになるとは、娘も感激していることでしょう」

「感激はしておりませんわ」

 口をついて出た言葉に、部屋の空気が凍った。

 エマが小さく息を呑む気配がした。継母の笑顔が引き攣る。父は目を見開き、今にも叱責を飛ばしそうに口を開きかけたが、その前にセドリックが静かに言った。

「……そうだろうな」

 叱りもせず、咎めもせず、むしろそれを当然のように受け止めた声音だった。

 リリアーナは一瞬、言葉を失った。前世の彼なら、こういう場では眉一つ動かさずに沈黙しただろう。そして沈黙の責任はいつも、空気を乱した自分の側へ落ちてきたはずだ。だが今の彼の声には、自分の言葉に傷ついた気配が、ほんの少しだけ滲んでいた。

「リリアーナ」

 初めて、彼が名を呼ぶ。

 婚約前だから当たり前のことなのに、その二音は不自然なくらい重く、深かった。前世では、他人がいる場でしかほとんど呼ばれなかった名だ。二人きりの夜、彼は用件だけを告げることが多く、こちらの名を必要としなかった。

「今日は確認に来ただけだ。無理に話す必要はない」

「……確認?」

「婚約調印の日取り、護衛、式服の搬入経路、その他もろもろ」

 事務的な答えだ。けれど、その瞳はそれだけを言っていなかった。生きているか、苦しんでいないか、目の前に本当にいるのか。そんな愚かな問いが、抑え込まれたまま底に沈んでいる気がした。

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